平成28年 春の叙勲 瑞宝双光章を受賞して

静岡県静鈴会会長 小林 利次


 私はこの度、平成二十八年 春の叙勲を危険業務従事者(警察官)として 瑞宝双光章 を受賞することが出来ました。瑞宝双光章は、公共的な業務に長年にわたり従事して功労を積み重ねた者に、内閣府賞勲局の審査を受け、時の内閣総理大臣 安倍晋三 より授与されるものです。
五月九日 静岡県警察本部長より 叙勲 伝達があがり
五月一六日 皇居宮殿において 夫婦同伴のうえ天皇陛下 御臨席の礎 拝謁、お言葉をいただくことが出来ました。
 振り返ってみますと、私は昭和三十八年四月高等学校を卒業と同時に静岡県警察官を拝命し警察学校にて一年間、職業訓練を受けました。
 初任地は静岡中央警察署でした。若い時の二十年間を交通警察官、歳をとり後半は地域警察官(交番勤務)でした。交通警察官の時は県警の交通指導課において、交通情報センターの業務を担当しました。
 NHKやSBSラジオにより交通情報を提供し交通渋滞等道路交通の円滑化を図りました。
 交通ひきにげ捜査班の時は夜中であっても呼び出しがあり事件発生現場に出勤しました。死亡事故で犯人検挙出来ない時は上司から犯人を捕らえるまで、帰って来るなと叱咤激励され二カ月間位警察署道場に寝泊りし捜査、犯人逮捕に結びつけたこともありました。
 警察署交通課勤務の時は、緊急自動車の許可事務、交通安全運動の企画と実施、安全運転管理者の迸解任事務、と事業所に対する安全教育係を担当しました。
 一番大変だったことは交通事故の扱いです。交通事故現場での検証後、死亡事故の時は病院で死体見分 警察署に帰れば被疑者の取調べを行い事件の概要をまとめ、運転免許停止の行政処分の手続、同時に検察庁への事件書類の送致手続で多忙な日々を過ごしました。
交通取締りは白バイやパトロールカーで出勤し、違反車両捕捉の為緊急走行し危険な事もありました。
 印象に残っていることは、日本平パークウェイで事故の多発したことから県警のヘリコプターを出動願い、空からの偵察と地上での取締りを連係させ追越違反や速度違反の取締りを行ったことです。
 地域警察官になった時は部下も増えプレイニング、マネイジャーとして仕事を進める事が出来ました。
 JR清水駅前商店街歩道上には歩行者も通行出来ない程放置自転車が散乱していました。放置自転車が歩行者の通行の妨害となると同時に商店街の美化を害していたことから地元町内会、清水市役所、当時の国鉄の協力を得、自転車の一掃を図りました。清水市役所では駅東側に自転車置場を設置していただき問題解決した時はうれしかったです。静岡市の繁華街である呉服町通りや七間町通りでは自転車盗が多かったです。そこで勤務員三名で遺留品捜査を実施し長時間張り込みを続けたところ一か月で少年など含め二〇名の犯人検挙が出来ました。
 この他 静岡市の安部川花火大会
     島田市の島田大祭
等 祭典警備計画を起案し 祭典が無事終った時は安堵感と同時に達成感に浸ったものです。
 平成十六年三月島田警察署地域課を最後に定年退職しました。送別会は署員一同により大井神社 雅美殿 で開催していただき 送別の辞は感激のあまり涙しました。
 退職後は交通安全協会で働かせていただきました。勤務中、喉に異変を感じたことから病院で診察してもらうと咽頭癌であること告げられました。静岡県立がんセンターにおいて咽頭摘出手術を受け、声を失ったのです。
 平成十八年十月声を取りもどすため静岡県静鈴会に入会し二年余の歳月をへて発声訓練をしたところ声が出るようになりました。しかし身体障害者となってしまったのです。
 現在はこの静鈴会で発声訓練士としてボランティア活動を行っております。
 子供は二人おりまして長女は一般の会社員と結婚し隣接する焼津市に居住しております。
 次女はジュエリークリエイターの仕事をしている男性のもとに嫁ぎ東京都青梅市において営業活動をしております。
 自宅は老人世帯で家内と二人だけです。妻は気功教室やマジックの講演に出掛けています。
 私は公民活動で囲碁やゲートボールに興じ、日々平穏な毎日を送っております。
 静鈴会の皆様今回叙勲の栄誉に輝けたのは声を失った私に新しい声の発声方法を教え、社会復帰する機会を与えて下さった諸先輩の御指導の賜物です。今度は私が恩返しの積りで微力ながら新入会員に対し発声訓練のお手伝いをさせていただきます。
 静岡県警の皆様五五〇〇余の大組織の中で四十二年間、大過なく仕事をさせていただいた事が受賞の対象となったと思っています。私は現職中大きな事件解決の手柄話もありません。
しかし県警の指針である「正 強 仁」の教えを胸に秘め職務執行に任じ治安維持に当たる諸君のご活躍を祈っております。
 叙勲 ありがとうございました。 

 (原文ママ)